覚醒

大学時代の師匠が色々と名言を私の心に残しているのですが、その中に「Education is firing!」というのがありました(後ほど調べると、良く言われる言い回しの様でしたが)。つまり、教育とは学生の心に火をつける事であって、一旦燃えたら、あとは自分自身で燃え続けるのだ、という事です。火をつけるまでが教育者の役割なんですね。例え話で、馬に水を飲ませるために水辺に連れて行くことは出来ても、馬が自ら水を飲まなければ、結局水を飲ませる事は出来ない、という言い方もする、アレですね。

で、火をつけるためにどうしたらよいか、というのは私もあまり良く分からないのですが、私はその師匠に学部4年生で初めて出会って1年間ぐらいそばで過ごして、研究室の先輩を叱ったり、「私は世界一の仕事をこれまでしてきて、これからもしていくんだ」という演説をしたりしているのを聞いて、「何かこの人はすごい」「とても有名らしい」「周りの人がみんな凄いと言う」という気配に圧倒されて、なんかこの人についていけば自分も凄いことが出来るようになるではないかと思ったように思います。

また、師匠本人だけではなくて、研究室の先輩や会社から来ている研究員の方々が研究に取り組む姿を見て、自分も頑張ってみよう、と思ったのでしょう。結局、学部3年生までの不真面目な態度は一新されて、バイトもサークルも絶って、研究生活一筋になったのでした。人間は動物の一種なので、感覚を通じて本能で感じてしまう事には逆らえない、というか、論理を超えてしまう物なのです。

厨二的な言い方をすると、これが「覚醒」なのかもしれない、と最近思っています。(とはいえ、これも誰か大学教員の人が言っていたような気もしますが)。早い人だと大学に入る前に「覚醒」しているのかもしれませんが、私の場合は4年生でした。やはり道を究めるためには「覚醒」が必要で、一心不乱に一つのことに取り組む、考え抜くこと、そういう経験をしないといけません。

一説には、一万時間の経験で能力が開花すると言われます。それにしても、一万時間も何かをやり続けるためには、その最初のきっかけが必要で、それが「覚醒」もしくは「Firing」なのでしょう。

最近研究室の学生には「大学はコネを作るところなんだから、良く遊びにいってお互い仲良くなっておきなさい」と指導しています。

「覚醒途上の者」にとって、「覚醒」のためには「覚醒した者」との「交流」が必要であり、「交流」が新たな「覚醒者」を生むのだと、思っています(厨二的に)。また、大変な環境で共に戦った「戦友」との友情は、生涯残るものだと、思います。ということで、研究室の学生は、先輩や教員とよく交流しましょう。